不惑 |
2025.02.04四十にして惑わず。なんてあるが、実際40歳になってみてもそんなことは無く。。日々惑うことばかり。子供の著しい成長を見ていると、つくづく自己の成長は感じられず嫌気が差すこともあるのだけど、受け入れるほかない。考え続けること、考え抜くことが仕事みたいなところもあるから、二人で揺れ動き続けるのが通常運転、ということで。
Present |
2025.01.172024年もあっという間に半月が過ぎた。昨年からのプロジェクトがどれも大詰めで、ありがたいことに忙しく過ごさせてもらっている。そういえば年末、打ち合わせで八女へ足を運んだ帰り、初めて「うなぎの寝床」に寄った。存在は勿論前から知ってはいたが、九州を中心とした手仕事・メーカーの商品がこんなにも色々とあるのだなーと改めて思うことだった。その中で僕らの食指が動いたのがこれ。フランス人デザイナー、ポーリーン・デルトゥアの有田焼のコーヒーカップ。手にとった実物が抜群に良かった。おそらく「高台」に東洋の器らしさを感じ取ってのアイデアながらも、凡庸にならず、ほどよく新しい空気も感じる。湯呑みのような小ぶりなサイズも絶妙で、コーヒーやお茶は勿論、我が家では少量のスープなどもしっくりきている。釉薬が全体にかかった滑らかな底面と丸みは、手への収まりがとても心地良い。非常に絶妙かつ繊細な色味のグリーンで、買う前から日常に溶け込む絵が見えるようだった。2021年、彼女の訃報をSNSで知った。38歳だったという。以前からプロダクトを愛用していること以外、なんの接点も無い謂わば他人だが、こんなに才気溢れる人が若くしてこの世を去るのは、同じプロダクトデザイナーとしてやるせない寂しさがあった。たまに「生涯で、あとどれだけのモノを二人でデザインできるのだろう」と考えることがある。モノはすでに溢れ、作る必然性は薄れ、寧ろ作らない、別の選択肢が必然性を持つ時代。この先自分たちにできることがあるのか漠然と不安になることもあるが、彼女のプロダクトを手にして、勇気を貰えた思いがした。「Present」という言葉に「現在」という意味が何故あるのか理由は知らないけれど、なんかこれはとてつもなく深いことなんじゃなかろうかと(勝手に)。心地良いデザインのカップを二人で使いながら「こんな仕事がしたいねえ」としみじみ感じ入る年末年始だった。今年はより一層、「いま」にフォーカスしてゆけたら。
迷ったティーカップのこちらのカラーリングも、これまたソーサーとの関係性が素晴らしく、またの機会に買い求めたいと思う。
雑感 |
2024.10.26デザインするとき、とにかく二人で話すようにしている。その際よく出るのが「はずかしい」という言葉。「こういう伝え方になると自分で言ってる感がはずかしい」「(デザインが)こうなると頑張り過ぎててはずかしい」といった具合で、多分「はずかしい」表現は受け手に一種のバツの悪さを与えてしまうのだと思う。「ウケが良さそう」とか「こうすると今っぽい」といった考え方や志向性もあるのだろうけど、自分たちの場合それよりは若干後ろ向きというか笑。「はずかしい」と「はずかしくない」の間には決定的な差がある。ただ、表現自体の差異は一見すると非常に些細なものだったりもして、2つの感覚の間の境界線を見極めるのが肝要だと思ってる。「はずかしくない」ものは、受け手に対して心地よい余白や余韻を残してくれる。多分それは「粋」ってことでもあるんだろう。
目と手 |
2024.06.29数年前、とある大学の授業の一環で、仕事に関するインタビューを学生から受ける機会があった。「あなたにとってデザインとはなんですか?」といったデザイン専攻学部として至極ベタな質問だったと記憶している。その際「デザインは自分にとっては目的」といった内容を話したら、後日学生の間から「デザインは目的ではなく手段ではないか」という議論が起こったらしい。ごもっともとは思いつつ「それだけじゃないんだよなあ」と当時は漠然と感じていた。
それから数年のちの過日、二人で学生の前で話させてもうらう機会を頂いた。テーマは相方が決めてくれ「目と手」とした。彼女が言うには「あなたは目じゃなくて手の人だから、デザインは手段じゃなくて目的なんだよー」と。なるほど〜そういうことか〜と数年越しに合点がいった(字的に逆なのはすごい偶然)。ここでいう「手」は、単に手を動かして何かをつくることに限らない。すべての検証と実装のプロセスそのものが「手」であり、視点と仮説の設定が「目」の役割となる。目と手は不可分であり常に液体のように入り混じっている。
デザインという言葉が広義になってゆけばゆくほど、デザイン思考のようにインスツルメントとして民主化され、「目」の要素が一層重視されるようになる。そういった俯瞰的な視点は今後ますます重要になってくるのも事実。だだ、「目」に偏り過ぎたときに必ずこぼれ落ちてしまうものがある、とぼくらは思ってる。それは「目」とバランスをとるものであって、デザインそのものへの眼差しであり、つくる悦びのようなものでもある。そしてそれは決して大きな目的の為だけに在るものでなく、コンサマトリーで自己充足的なもののはずだ。つまりAIには原理的に担えないもの、ということになる。
デザインにおいて目と手のバランスを意識すること、特に他者と補完し合ってそれに取り組む楽しさや可能性について、幾らかでも今回受講してくれた人に伝わっていれば嬉しい。
直島 |
2024.06.2810年 |
2024.02.20TSE2023終了しました |
2023.11.29ヴェネチア建築ビエンナーレ2023 「TIME SPACE EXISTENCE」展が11/26をもって終了。聞いたときは半年もあるのか〜と感じた会期も、過ぎてみるとあっという間というのが実感で。現地へ渡航していないこともありリアルな反応まではあずかり知る所ではなく、でもまぁそういうものかと思っていた矢先。終了4日前、滑り込みヘッドスライディングもいいところでドロワーの購入希望者から連絡が。。こんなってことある??と二人で驚いたが、いろんな意味で正直しんどさもあった今回の招聘・出展も、クライアントや財団をはじめとする周囲のサポートに助けられ乗り切ることができた。運営のECCからも560Pにおよぶボリューム満点の図録も届き、そちらも良い記念となった。今後も海外への出展やイベント参加の機会があれば、是非積極的に参加していきたい。
ヴェネチア建築ビエンナーレ |
2023.08.055月下旬から始まったビエンナーレもあっと間に2ヶ月半経とうとしている。昨年の6月、招聘のメールに二人して目を丸くしていたのが遠い昔のことのようでもあるし、そこからあっという間だったような気もする。いまいち現実味が薄いのは、やはり現地へ足を運んでいないからなのかも。ただ、渡航することよりも、日本でもっと大切なことを優先できたのは幸いだった。海外での展示自体が初めてにもかかわらず現地に渡らず、遠隔でのやりとりを根気よく(お互い)続けること約半年…SNSでも書いたが、周囲のサポートが無ければ形にできなかったことは間違いない。また、主催ECCのキュレーター(メンバーのほとんどが女性!)が、僕らの仕事に目を留めてくれたからこそ恵まれた機会でもある。日本からの出展者リストを見るだけでも、大御所建築家の名前がちらほら、Designカテゴリの枠は僕らのみで、あとはすべて設計事務所という場違い感は否めないのだが(汗)。かねてからすっげ〜と言いながらフォローしているノルウェー・オスロのココとかも出展しているのも光栄で、出展作品見てまたうぇ〜と唸りっぱなし。ECCには、無名な僕らにこの素晴らしい機会を与えてくれことに感謝しかない。
今回、時間的にも金銭的にも(僕らにしては)結構な「投資」をした訳だが、果たしてこれがどういう結果に繋がるのか。そもそも何をもって「結果」なのかも正直わからなくなってきてて。むしろ「過程」の連続が人生そのもののような気さえする。たんぽぽの綿毛はどこへ飛んでゆき、いつ誰の元へ落ちるのかわからない。落ちた綿毛の種がまた、次の何かに繋がっていくような仕事がしたい。
Photo by Clelia Cadamuro
Venice Architecture Biennial 2023 “TIME SPACE EXISTENCE” |
2023.05.20出展してます。本日より半年間開催です。
https://timespaceexistence.com/
詳細はまた追って書ければ
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ヴェネチア建築ビエンナーレ2023 「TIME SPACE EXISTENCE」展
[会期]
2023年 5月20日(土)〜11月26日(日)
10:00~18:00
火曜定休(入場無料)
[会場]
Palazzo Mora
Cannaregio 3659
30121 Venice, Italy
[ブース]
3A5
[展覧会サイト]
timespaceexistence.com
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[協力]
株式会社杉工場、株式会社井澤製陶、岸本挽物
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[助成]
野村財団
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[プレスリリース]
雑感 |
2023.03.06
芸術品は道具のように暮らしに根付くものにもなりうる。
道具もまた芸術品のように日々を豊かにするものになりうる。
先日機会があって、相方が書き起こしてくれた文章。そうやって両極にあるものを同時に抱くから、記号化できないし、なかなか難しい側面もあるのだけど(バズらないとか)。自分たちが目指すのは、間違いなくそういうアンビバレントなものだろうなぁと。おかげでここ数年胸につかえていたものが下りた気がした。